おらが町の史跡・文化財

中村

守田廼神社

創建年月日は、不詳ですが、旧高田村(北条・中村・五分一)の産土神でした。古くから守田八幡宮と云われ、守田神社にありましたが、永禄3年(1459)現在位置に移ったと伝承されています。

 

宝暦6年(1756)11月神祗官吉田家に願い出て、社名を守田神社と改めました。しかし同じ名前の神社が水内郡古間村(現信濃町)及び長沼村穂保(現長野市)にあり、社号の論争がおこなわれ、天保10年7月現在の守田廼神社と命名されました。

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日知学校(にっちがっこう)

明治6年12月1日、高田村の内中村組の民家小林栄蔵氏方を借りて学校としました。学校名は日知学校(孟子のことばから)と命名しました。
組合立学校で、北高田村(北条・川端・久保・五分一))・上高田村・下高田村・平林村・敦賀町の七瀬地区の417戸が対象地域でした。

 

生徒数は100名に満たず、女子生徒は1人もいませんでした。明治19年3月廃校となりました。跡地は「デイサービス高田がっこう」となり、昔の面影はみあたりません。

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川端

川端天神社

  • 祭神 正一位 太政大臣 菅原道真公(すがわらのみちざねこう)
  • 御神名 天満大自在天神(てんまんだいじざいてんじん)
  • 配神 天照皇太神 飯縄社(てんしょうこうたいじん いいづなしゃ)

 

創立年月は不詳ですが、旧北高田村(川端)の産土神(うぶすなかみ)です。

昔、この土地は裾花川の支流が流れる荘園でした。川は乱れて洪水が多く、家や田畑が殆ど流出してしまった時に、菅原道真公の霊像が流れ着きました。

災厄払いと子孫にいたるまで福祉あれと願って村の東端に祠を建て、その霊像を祀ったのが始まりとされています。
永禄年間(1558~1569)にこれを改築し、北高田村天神社としました。 元和二年(1616)に本殿を建て、元禄五年(1692)に拝殿を増築、更に天保十年(1839)に社殿を改築しています。

以来村人はこれを崇拝し、明治六年(1873)に村社となりました。 「東風(こち) 吹かば 匂いおこせよ 梅の花 主(あるじ)なしとて 春を忘(わす)るな」の歌で知られる菅原道真公は天神様と呼ばれ親しまれ、災厄払いと学問の神様として崇められています。 現在では、毎年正月に特別祈願「登龍門祈願祭」が行われています。

 

●祭事

◎春季例祭 四月二十八日・二十九日

◎秋季例祭 九月二十二日・二十三日

◎大祓祭  十二月第一日曜日

◎元旦祭  十二月三十一日・一月一日

◎登龍門祈願祭 一月三日

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川端天神社

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登龍門祈願祭

南長池

船着場跡

昔、裾花川がこの辺を流れていて、ここは船着き場になっていました。
ここに「ひむろ」の大木があり舟を繋いでいたと語り継がれて来ました。
その大木も平成9年に道路拡幅のため切り倒され、この事を後世に残すべくここに碑を建立されました。

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東和田

十王堂

創建伝承のある古い祠堂で、通りすがりに立ち寄れる規模ながら、人々の心に根ざした信仰と地域史の結びつきを示す場所です。
歴史的・文化的な興味からだけでなく、住宅地の中の風情あるシンボルとしても印象深い存在です。 

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荒屋

美和神社の祭事〜越年祭〜

古牧の北西の端に位置する荒屋町は、美和神社の氏子になります。 奈良県桜井市にある「三輪山全体を御神体とする大神(おおかみ)神社」を本宮とする美和神社は、大変格式のある神社として知られています。

 

  1. 春季大祭(4月27日)
  2. 風 祭(9月1日)
  3. 宵宮祭(9月26日)
  4. 秋季大祭(9月27日)
  5. 新嘗祭(11月27日)
  6. 年越祭(12月16日)
  7. 元旦祭(1月1日)
  8. 追難祭(2月3日)

 

年八回の祭事を三輪七ケ町の氏子総代によって行い、当番制で当番町は大当番町と称して祭事の全般を一年間取り仕切ります。 中でも12月の年越祭は、他に類のない神事なので御紹介します。

 

  • 午前中より社務所にて、境内の百末社の祠にお納めする新しい御神体の作成
  • 午後1時より社殿にて百膳盛りの祭事(一年間の豊穣に感謝しての祝膳)1膳-5つの椀に其々ご飯、その上に塩煮の大根、人参、牛蒡、さやえんどう、乾煎りの田作りを盛り付けたもの 廻し膳で20膳を1膳ずつ大当番町の組総代4名が盛り付け、宮司、禰宜が祝詞奏上の中、七ケ町の氏子総代が手渡しにて、御神前にお供えする
  • その後、午前中に作った御神体を百末社にお納めする。

お掃除やお台所のお手伝いは行きますが、神事は各町の氏子総代さんと大当番町の組総代さんしか見ることができない秘伝の神事です。

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美和神社 年越祭

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美和神社 年越祭

上高田

市指定文化遺跡”南向塚古墳”

国道19号線沿いに、桜の木に囲まれ、こん盛りした山がある。これが、善光寺平唯一の前方後円墳”南向塚古墳”で、山頂に観音堂が建っている。

7世紀頃、この地方の土地を開拓し、水利を治めたいわゆる権威ある支配階級のものの墳と思われる。未だ発掘された形跡はなく、どんなお宝が埋まっているか、夢のある古墳である。

 

古墳の関係遺物としては、狸か狐がほじくり出したか、明治43年頃後円部東北下りの中程からメノウの勾玉が発見されている。

現在は、桜の花の名所として知られ、近隣から集まった老若男女が、ぼんぼり提灯の下げられた桜の下で、花を愛で、ほろ酔い機嫌で楽しい一時を過ごす格好の穴場だ。

祭りとしては、4月第2週日曜日に例祭が、8月9日に観音堂の四万八千日祭が行われる。

 

  • 例祭
    最近は、この祭りに合わせるかのように桜の花が見ごろになることが多い。
  • 四万八千日祭
    この日お参りすると48,000日お参りしたと同じ功徳があるといわれている大変お得なお参り日。
    現在この一帯が、「古墳に親しむ新公園」として2.4ヘクタールの広さで建設計画が進んでいる

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桜の南向塚古墳

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桜の南向塚古墳

北条

青面金剛像(しょうめんこんごうぞう)

北条の庚申講(オカノエ講)の本尊。
道教によれば、人間の体には三匹の虫がおり、庚申の夜には体を抜け出して天帝にその人の悪行を告口にいく。そして、天帝はその軽重に応じてその人の寿命を減らすのだと。 しかしこの虫は、人が起きている間は体を抜け出せないのだそうで、その対策として人々は庚申の夜は眠らないことにした。 これが庚申信仰。そして庚申講。

庚申講は、特に江戸時代に盛んに行われた。当番の家に近くの講の人たちが集まり、本尊に線香をあげ、読経をし、飲食をともにし、眠られぬ一夜を明かした。しかし、この庚申講も近年は徹夜をすることも少なくなり。また廃れていった。
この北条の本尊もその役目を終え、最後の当番であった伝田家から地蔵庵に納めれられ、現在に至っている。

 

青面金剛像は高さ三十センチほどで厨子に納められており、明治24年1月の日付、武井町という地名と大仏師の名が刻まれているが、仏師の名は判読出来ていない。

 

記 相島

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青面金剛像(保存場所 北条・地蔵庵)

西尾張部

西尾張部 北原地蔵尊

北原地蔵尊は、およそ300年前、八幡川へ流れてきたものをこの地の人達が引き上げて祀ったものと伝えられている。
青木のお地蔵さまと北原のお地蔵さまが喧嘩して、北原のお地蔵さまが背中を切りつけられたと言われ右肩にその痕が印されている。ご利益は、子供が夜泣きをした時、炒り豆をあげてお参りすると良いと言われている。

近年は毎年7月23日に庵主さんに読経をしていただき、大勢の皆さんが参加して、地蔵尊祭りがおこなわれている。また秋の例祭には獅子舞も奉納している。

西尾張部通信員 山田

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西尾張部

尾張城跡

三陽保健センター隣の公園に尾張城跡公園石標が建っています。
文献によると本丸の広さは東西53間、南北47間。(西側の)二の郭跡は東西65間、南北38間で天正年間(1573〜1591)尾張備中が住居したとあります。また他の文献には尾張部三郎が居館したが永禄(1558〜1569)始めに武田氏に降ってこの城館を引き払ったともあります。

区画整理の発掘調査では主郭(本丸)、内濠、馬場などが確認されており、特に主郭からは多数の建物址の痕跡と陶磁器類が検出され、当時の生活の様子を探るさまざまな成果が得られました。

二の郭の西側の低地では平安時代の集落の一部が検出され、尾張城跡のルーツはこれらの住居にあるのかもしれないとの事です。

主郭と二の郭の下層から古墳時代前期(約1800年前の弥生時代後期)の住居址や環濠も検出されています。    

参考・西尾張部土地区画整理組合 竣工記念誌

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南高田

とうせんぼう祭り

南高田には200年続いている伝統行事があります。
毎年8月31日の夜8時から、火をつけた「たいまつ」を かざし地区のお宮の境内を行列します。

 

昔から、二百十日と二百二十日ころ台風が来ると云われていました。
その台風を、とうせんぼ(通らせない)する為と、五穀豊穣・家内安全を祈るお祭りです。

たいまつに火をつけ、伊勢社に奉納します。昔は村内から神社まで、たいまつの行列が見られました。その数100本以上あったと云われています。 神主さんの神事は昔からありません。
区長さんと地区の人々が200年来守っている南高田の伝統行事です。 近年はたいまつを作る麦ワラが少なくなり、10本〜30本くらいでした。 去年(2011年)は、村内で麦わらが間に合い、50本のたいまつを奉納することが出来ました。

地区の人たちも「とうせんぼ祭り そりゃ〜なんだい?」と思っているのではないでしょうか。
200年も続いた地区の伝統ある行事をこれから、どのように伝承していったらたらいいか考えさせられます。

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平林

平林城跡碑

平林安達神社の北側に平林城(武田信玄の武将原美濃守の出城)がありました。


現在はJR長野工場になり当時の城あとはわかりませんが、今から50年ほど前までは本城山と言われ土盛りがした後がありました。

また、まわりには3重の堀もあり、当時は子ども達が冬になると氷の上で遊んでいました。

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西尾張部

安達神社境内にある
三十三社のロマン

安達神社の東側に安置されている「三十三社」の祠は、今から140年ほど前の明治3年と聞いています。当時の平林は約50前後の家屋と、約300人前後の住民が暮らしていたと文献に記載されています。

また、江戸時代の後期から明治の初めごろは各家の守り神として各家でお祭りをしていましたが、子孫の繁栄と平林の発展を祈願して安達神社に集めて建立したのが事の始まりだと聞いています。
祠の中には各家の守り神様の「本札」と呼ばれる物がおさめられています。年越しには祠にしめ縄をしたり、お飾りのおもちを飾ってある祠もあります。

現在は安達神社の氏子総代の皆様が「三十三社」の一年間の汚れをお年越しの前に掃除をしていただき守ってくれています。 そして安達神社の矢沢宮司さまにお祓いをして頂きお祭りをして頂いています。現在は「三十三社」の世話人が春祭りを前に平林在住の家を訪問してお米を集め、安達神社に奉納をしておりますが、今後の課題ですが、現在平林在住の20数体の祠また、平林に在住されいない方の10体ほどのお世話をどのようにしていくか少し気がかりです。いずれにいたしましても140年前のロマンを少し感じます。

記 平林区 宇佐美 修造

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五分一

長野市指定樹木

樹種ケヤキ
樹高10m、胸高周3.9m、樹齢300数十年の大木です。

  • 指定年月日
    昭和57年2月27日
  • 指定番号
    第138号
  • 所在地
    長野市高田五分一552
    国道19号線北側・高田若槻線交叉点西側2軒目
  • 所有者
    塚田 久直 氏

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